「凧」後のごあいさつもなく、ずーっとほかっていましたが、ブログを復活いたします。
今後ともデホーにお付き合いいただければ幸甚です。
ということで、「森町飯田天王祭」「遠州大念仏」「二俣まつり」を近日公開します。
さて、表題の「おもてなし」についてです。
「おもてなしの町、浜松」
ご存じ、浜松の観光コンベンションビューローが喧伝している浜松のキャッチコピーです。
で、観光のキーワードとしての「おもてなし」って、何なんでしょう?と思うわけですね。
一昨年でしたっけ?有川浩の『県庁おもてなし課』がスマッシュヒットした際にも、観光における「おもてなし」がキーワードになったわけですが……
祭礼や伝統行事(特に我々の「凧」)に関して言えば、何をすれば「おもてなし」になるのでしょう?
伝統行事を観光の一環に組み込むことはどこでもやってます。
しかし、伝統行事の内容そのものはたいして「おもてなし」とは言えません。
たとえばJR駅舎でのポスター掲示拒否が問題になった岩手県の蘇民祭。
あるいは異形の神が誰彼かまわず泥を塗りつけまくる沖縄宮古島のパーントゥ・プナハ。
日常・あるいは常識の観点から見れば、むしろ不気味だったり不快だったりということだってあります。
それに参加者(あるいは行事の実行者)は見物に来た人に対して酒食をふるまうわけでも何かモノをプレゼントするわけでもありません。
しかし人々は祭事を見物に来ます。
ある時は「古式ゆかしき優雅な舞」を見に、
ある時は「町衆の心意気」を感じに、
またある時は「浄化と再生」を共有しに、
さらには「勇壮で圧倒的な迫力」を共感しに、
それは「よきものとして受け継がれて来たもの」を感じるためと言ってもよいでしょう。
たとえ現場の人間が見物客と接触せずとも、伝統を伝統として堂々と見せれば、それは「おもてなし」なのだと考えます。
「朕の新儀は未来の先例」とのたもうた帝がいましたが、「未来の先例」となれるだけの合理的論拠もなく、軽佻浮薄に時代に迎合するような「新儀」は「おもてなし」とはとうていなれるはずがありません。
迫力や美しさをはっきりと見せる努力
受け継がれるべく受け継がれてきた伝統
これを守っていくことが大事だと思います。