酒上不埒 三日(置き)坊主の日記

「浜松まつり」ではなく凧揚祭を愛し、あちこちのお祭りも愛する東田組HP管理人の日記
「凧」前に思ったこと
ウィキペディアの「浜松まつり」のこの部分、おそらくは小楠和正氏の著作を参考文献に書かれたものでしょうが、我々の「凧」が明治以降の100年の間に、合戦をベースとして発展してきたものであることがよくわかります。

〈以下引用〉
明治に入り庶民の娯楽が多様化すると初凧の習俗は「時代遅れなもの」として次第に行なわれなくなってしまうが、明治7年頃に浜松の職人町に消防組が組織されると各町の若者同士の対抗意識が高まって町同士による凧合戦が行われるようになった。消防組単位で凧合戦に参加していたことを直接確かめる資料は見つかっていないが、消防組の影響は参加各町を組で表すことや、古くから参加している町の凧印には纏を図案化したものがあることからも伺える。

1884年(明治16年)

「浜松駅紙鳶あげの馬鹿騒ぎは毎度記るせしが昨今は実に甚だしく去る廿四五日の頃よりは各町毎に隊伍を組み夫々の屯所には消防に用いる旗を立てて(中略)合図は太鼓喇叭で進退し田面麦畑のきらいなく奔走し、又各町人の見易き為会印に換る手拭を以ってし肴町は晒し、連尺は豆絞り、伝馬連は芥子玉と思ひ思ひに色分けし寺島、稲葉のごときさしもに広き畑中も狭しとする程群集し、恰も戦争に異ならず」--函右日報 明治16年4月28日の記事より

とあり、この記事からも消防組と凧合戦の関係がわかる。また、この記事には「太鼓喇叭で進退し」とあり、既にこの頃からラッパが凧合戦合図の為に使われていたことがわかる。現在でもこのラッパの始まりを、大正初期に和地山練兵場で開催された際に見物していた兵士によって吹かれたことから、と紹介されることがあるが誤りである。

この頃数組以上が集まって凧合戦が行われていた場所として田町の大安寺・法雲寺、北寺島町の機関庫建設予定地、新川端から馬込川端、伊場の鉄道工場建設予定地(現在のJR東海浜松工場)などがあったが大正7年からは和地山の練兵場(現在の和地山公園)に一本化されて行われた。
〈引用終了〉


むろん「凧合戦」とは、空中戦です。地上戦ではありません。
お互いの糸を切り合うことで、町の士気を高めてきたのです。

映画「合戦」(昭和51年 青池憲司監督)に於いて、合戦にもまれながらも決して落ちることのなかった当町の凧、あの映像が目標です。

今年も素晴らしい空中戦が行われることを祈念しまして……
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by talisker1969 | 2014-05-02 00:45 |
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 このページは、東田組の公式見解ではなく、あくまでも個人ブログです。また、単なる凧そのものや、「浜松まつり」と区別して、私達の凧揚祭を「凧」とカッコ付きにしてあります。「おまつり広場」だの「吹奏楽パレード」だの「日本民謡総おどり」だのを含んだ行政主導のイベントについて、およびほかの人の引用部分は「浜松まつり」と表記してあります。あくまでも旧来続いてきた凧合戦と屋台を焦点に据えていますので、それを頭に入れてこの日記をお読みください。
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